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ハイコンテクスト カルチャーでのささいなサービスの食い違い - Petty different services in High Context Culture

*English follows Japanese

先日、知人と昼食を取っていた際、日本はハイコンテクスト カルチャーであり、その環境に慣れていると、本社との交渉ではローコンテクスト カルチャーの意識を持って議論しないといけないため、かなり苦戦するという話がありました。
このことは、確かに以前ご紹介した遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」でも触れられており、特にコンテクストの説明として ”言語、共通の知識、体験、価値観、ロジック、嗜好性” と定義されています。
ハイコンテクスト カルチャーにおけるコミュニケーションは、時に物事を短時間かつ少量のデータのやり取りですすめることを可能にしますが、今日はコンテクストのささいな食い違いに寄るエラーについて紹介したいと思います。

ここ数年、私は仕事の関係で年に2回ほど北米の同じ都市を訪問する機会があります。この時、業務上のポリシーにより有償サービスの業者を経由してチケットを手配しなくてはいけません。行き先までの航路として成田からの直行便もあるのですが、時間と選択できる航空会社、そして個人の嗜好を理由に羽田からいったん別の都市で乗り換えをするルートを私は選択しています。
時間をうまく調整すると、その乗り換えの都市の市街地で昼食や夕食を楽しむのが、仕事前後のひそかな楽しみであったりもします。
今回も、いつもと同じように直行と乗り換えの見積もりを受け取り、差額を確認の上、大きな差額もでなかったのですが、どうも帰りの時間がいつもと違いました。
ただ、私が利用していた航空会社はここ数回、帰りの便の時間が変わりましたが、以前の時間は確かに今回提示された時間だったので、そのままいったん手配の依頼をしました。
その後、最終確認の依頼が来たのですが、どうもきになりましたので、念のため航空会社を聞いてみると、どうやら、別の航空会社その時間でサービスを提供しており、私がいつも使用している会社は、やはり別にあるということでした。

なぜ、このような食い違いが起きてしまったのでしょうか?
ここには、ハイコンテクスト カルチャーにおけるコミュニケーションがもたらす悪い影響がひそんでいました。
それは思い込みによるフィルターです。
私には、次のようなフィルターがありました。

  • いつものオプションが入っているだろう

一方で、サービス業者には次のようなフィルターが有りました

  • 同じ航路であれば、より安いオプションを提示したほうが良いだろう
過去のメールを見返してみると、担当者に寄ってはうまくコンテクストが合致したため、迅速に手配することが出来ていましたが、少しでも食い違うと今回のような事故も起きるという事がわかります。

このように、ハイコンテクスト カルチャーの社会では、コンテクストが合致している限り、ローコンテクスト カルチャーの環境に比べて、迅速に物事を進められるという特徴がありますが、少しでもずれただけで事故に繋がるという危険性も持ち合わせています。
食い違いが随所に現れやすいグローバル環境でのビジネスではローコンテクスト カルチャーを特に意識して進めてみてはいかがでしょうか。



One day, I had a brief discussion that we feel sometime tough discussion with US head quarter members because we have to pay attention to talking with them following "Low-Context Culture".   When talking with regional internal stakeholders or external partners, we do not take care of such things seriously because we are in High-Context Culture environment.   The similar things is described in the book "中国人とアメリカ人" by Shigeru Endo.   Specially, Context is defined as "Language, and the same knowledge, Experience, Philosophy, logic, preference".
High-Context Culture enables us to have communication proceeding things with shorter period and less amount of data.   Whereas, I would like to introduce an example that High-Context Culture communication makes serious troubles due to small error sometime.

During a couple of years, I have visited one city in US for having business meetings twice a year.   Following our corporate travel policy, I have to ask a vender to book my flight.   And, I usually selected transit route from Haneda despite direct flight is there from Narita because I look forward to having lunch or dinner at the transit city before/after business.
At this time, I asked a vender to give a differences amount of fees between Direct and Transit.   As for looking at his information, and, there is not a large amount of differences between them.  So, I asked him to book that flight.
However, I have a concern that the boarding time of returning flight is earlier than usual.  Certainly, that time was used before, however, the boarding time has been chanced a few years ago.   For just making sure, I asked him if there is another plan from Haneda.   Then, he replied to me that there is really another plan.   And I found out that another plan was just what I would like to select.

Why did this trouble happen?
We are able to see the hidden bad effect of High-Context Culture communication from this case.
The hidden effect is caused by wrong assumption filter.   I had the filter below:
  • The vender should list the same flight regarding the transit route
And the vender has this:
  • It is better to introduce cheap option if the route is the same
As for looking back my e-mail log, I was able to proceed requesting a ticket quickly because the vender and I was able to share the same Context.   However, the trouble like this case is to be occurred by small differences of Context.

In sum, while High-Context Culture enables us to proceed things faster if the Context is completely shared each other, some troubles is easy to occur if there are small failures of sharing.   In Global business communication case, it is really difficult to share the Context each other.   If you attempt to drive global businesses, why don't you take care of your communication if it follows Low-Context Culture?

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