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The Ritz-Carlton

*English follows Japanese

これは先日、知人がリッツ・カールトンに宿泊した際のお話。
知人にとっては記念日だったそうで、ホテル側も特別な部屋を用意されており、部屋から料理まで行き届いたサービスで、さすがリッツ・カールトンということでした。
ただ、「何かお困りごとはありませんか?」「お手伝いできることは有りますか?」と都度聞かれるのと、いくつかの観光名所やその周辺についてたずねたところ、都度「お調べしますので」ということで、観光地に有るホテルとしてはいささか知識レベルに疑問を持ったということでした。

この話を聞いた時、サービスはどうしても文化や風土に依存をしてしまうものだなということを改めて感じました。

もし、宿泊客が欧米式のホテルサービスを好む方であれば、完璧なサービス、さすがはリッツ・カールトンと大満足であったと思います。
その都度声をかけてくれることで、相談や質問もしやすくなりますし、コミュニケーションを取ることで安心感や親近感を得られます。
また、訪ねたことに対して懸命に回答を用意する努力をし、なんからの解決策を用意するところも素晴らしい姿勢と言えるでしょう。

一方で、この姿勢を日本人の目で見ると、手伝ってほしそうかどうかは察してほしいし、困りごとがないように一つ一つデザインされているべきと、考えてしまいます。
つまり、自然にありのままに考えることなく、心地よい状態を保持できることこそ、完璧なサービスと考えるからです。
また、観光名所やその周辺については難しいところもあるとは思いますが、値段相応のサービスと見ると、基本的なところは知っていた上で、やはり一つ話がほしいところです。該当する観光名所の話だけでなく、関連する他の名所、土地柄など、一つ連想した話をしてもらうと、聞いてみたかいもあった、さすがは一流のサービスと感じます。

以前の投稿にて「もてなし」について書いたことが有りますが、何を持って何を成すのか。それによって真のままでいくのか、行とするか、草までくずすか。
なかなか難しいところではありますが、日本人を相手にするとこのようなところまでの配慮が必要になりそうです。

ただ、一方でこれから多くの外国人観光客を迎えるに辺り、リッツ・カールトンのようなサービスを喜ぶお客様を「もてなす」ためには、もてなす側としては一つ考える必要もありそうです。


This story is heard by my friend who stayed at Ritz-Carlton.
They selected Ritz-Carlton for celebrating their memorial day.  And Hotel prepared the special room, served great meals, and arranged surprising services. My friends felt them as "THE" Ritz-Carlton.
However, they also felt uncomfortable two things.  First is that staffs asked them sometime "May I help you?" or "Is there any problems?".  Second is that staffs usually start searching information when asking some sightseeing spots and nearest restaurants and shops.   My friends concerns that staffs do not have enough level of ideas for their local area.

When hearing about this story, I have confidence that Service should depends on culture and climate.

If guests likes American or European style services, this service must be perfect.   And guests were really satisfied with their services.
They are easy to have communication and to make good relationship with staffs if staffs asks guests about something for helping sometime.
Also, guests appreciate if staffs tries to search and to find solutions for questions, problems, or requests from guests.

In "Japanese" view, on the other hand, guests would like to be got their insight.  And Hotel has to be designed without any concerns and problems.   The perfect service should keep guests feeling naturally comfortable.
Also, regarding sightseeing queries, guests would like to hear about not only appropriate information and answers, but also their original or additional idea related to those information.

In my previous post, I described about Omotenashi.   It is important when serving to Japanese customers, "What we bring" and "What we would like to have".   And keep formal, casual, or mixed?
Japanese like to be taken care of those level of services.

When Japanese serve to the other country's guests, whereas, they need to remind what kind of services the other country's guests favorites and feels comfortable.


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