スキップしてメイン コンテンツに移動

今更ながら、SDGs ってなに?

Japanese Only

はじめに、私はSDGs(Sustainable Development Goals)という言葉を作り、世界中で様々な取り組みが実行されていることをすごく良い流れだと思っています。組織、そして個人が意識してできることから始めていこうという、この考え方はすごく良いと考えます。

SDGsについては外務省のページに詳しく書かれているので、そちらを参照していただきたいと思いますが、一部抜粋しておきます。

持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。

今回、この記事を書くきっかけになったのは、Slus 6月号の特集「今日から始めるSDGs」を読んだことでした。そこには、日本ユニセフのページと同じ画像が使われて、それぞれに説明が加えられており、非常にわかり易い内容になっていました。ただ少し気になったことがあったので、ここでまとめておくことにしました。

具体的には、下記2つの項目を取り上げてみたいと思います。

8. 働きがい経済成長

16. 平和と公正をすべての人

太字にしましたが、「経済成長」は現在の経済的先進国がつくった経済が中心となった考え方の社会における言葉で、経済的な先進国の目線からくる定義であるような印象を受けました。また「働きがい」とならべることで先進国にフォーカスした印象が強まります。

また「公正」というのは文化や場所など、またそれぞれの人によって異なります。捉え方によっては非常に乱暴で共通概念の押しつけのようにも見えなくありません。私は公正ときくと「春色無高下、花枝自短長」という漢文が浮かびます。平等とは、公正とはなにか、についての禅語です。春の陽の光は身分の上下に関係なく降り注ぎ、でも、花の枝はそれぞれに長かったり、短かったりするものということです。つまり一様に同じことをするだけでは平等や公平にはならず、それを受ける一人一人によって異なるということを示しています。「平和をすべての人に」だとわかるのですが、「平和と公正を」となるとすこしひっかかります。「一律に」「皆同じに」といった印象も受けます。

もちろん、上記のユニセフのページから各項目をクリックしていただくと、詳細な説明があり、その内容は一概に経済的な先進国の目線からくる定義ではないですし、「公正」としたことについても具体的な内容がわかります。

では、どうしてこのような日本語の表現になってしまったのでしょう?英語の表記を見てみたいと思います。

8. DECENT WORK AND ECONOMIC GROWTH

16. PEACE, JUSTICE AND STRONG INSTITUTIONS

DECENT WORK について、ILO の日本語ページにて下記のように説明されています

「ディーセント・ワークとは、権利が保障され、十分な収入を生み出し、適切な社会的保護が与えられる生産的な仕事を意味します。それはまた、全ての人が収入を得るのに十分な仕事があることです。」言い換えれば、「働きがいのある人間らしい仕事」とは、まず仕事があることが基本ですが、その仕事は、権利、社会保障、社会対話が確保されていて、自由と平等が保障され、働く人々の生活が安定する、すなわち、人間としての尊厳を保てる生産的な仕事のことです。

上記で書かれているように「権利、社会保障、社会対話が確保されていて、自由と平等が保障され、働く人々の生活が安定する仕事」が大前提となります。「働きがい」と「経済成長」に先に目が行くと、得てしてこの大前提の部分を見過ごしかねません。

そしてもう一つ、16番目の” JUSTICE” の解釈、そして "STRONG" の抜け、さらに "INSTITUTIONS" の解釈です。これは詳細を並べてみるとわかりやすいかと思います。

日本語

“平和でだれもが受け入れられ、
すべての人が法や制度で守られる社会をつくろう”

 英語

Promote peaceful and inclusive societies for sustainable development, provide access to justice for all and build effective, accountable and inclusive institutions at all levels

いかがでしょうか?例えば "effective, accountable and inclusive institutions" について、これは「法や制度で守られる社会」が同じ意味なのでしょうか?人を法や制度で守るというのは、HOW であって、めざすべき  "effective, accountable and inclusive institutions" は違う日本語を当てることができるようにも思います。

ぜひ17のゴールを日本語表記だけでなく、その中身の169のターゲットにも目を通していただけると、なぜ国連で SDGs を掲げ、各国が、組織が、人が積極的に活動しているのか理解が深まるのではないかなと思いました。

 新聞、ネットの記事だけでなく、企業の取り組みについての案内、さらには担当してくれている美容師さんがSDGsのカラーホイールバッジを付けて「SDGs推進担当になりまして」と言うようになるほど、言葉が広く展開・認知され、そしてアクションにつながっていることを実感しています。「大きな目標を掲げ」て「覚えやすい短い言葉」と「ある程度自分の解釈でアクションを提示できる内容」の組み合わせがあると、広く社会に進展し、そして実際に多くの人が実際にアクションを取り始め、その目標に向かって進みやすくなります。例えば IoT(Internet Of Things)という言葉もそうです。基本定義は非常にシンプルで、様々な角度から IoT という言葉を使いやすくしています。結果として多くのデバイスやサービスが生まれています。
せっかくのこの機会、皆様もなにか小さな取り組みからはじめてみませんか?

コメント

このブログの人気の投稿

庚子から辛丑へ

 *English following Japanese 東京ではまもなく庚子の歳が終わり、辛丑へと干支が変わろうとしています。庚子の年は、新しいことが始まる年というのを読み、年の初め頃、今年から新しい事が始まりいろいろなチャレンジがありそう、といった話を仕事のCoffee  Breakでしていたのが懐かしく思い出されます。結果としては、ウィルスによる大きな生活と仕事の変化がありました。 ウィルスの脅威はありますが、いったんそこは置いておいて、実際の生活や仕事の変化だけを考えると、私の環境はすごく改善されたように思います。 通勤しなくて良くなったことで、仕事と私生活のスイッチを柔軟に行えるようになりました。このことで集中して働ける時間をしっかり取れて、一方で家族との時間も今までより多くとることができるようになりました。 風邪やインフルエンザのリスクも下がりました。職場などでうつった、という話もないので、実際に 0.17% までインフルエンザの感染者数が下がったという記事も見ました。マスク、手洗い、うがい、手指の消毒、これだけで防げることが多いということですね。当然、体調悪くなる人が減れば、チームでの予定外の生産性低下のリスクも下がります。 コミュニケーションについても、考える良い機会をもらえたと思っています。直接会って会話をしたり同じ時間を過ごせるのは、すごく大切なことだったなと感じるとともに、そこから密度と頻度のバランスについても改めて見直すことができました。物理的に直接会うコミュニケーションは、密度の高いものですが、そのためには準備なども必要でやはり頻度は低くなります。一方で、オンライでのコミュニケーションは密度が下がり、その代わり頻度を上げることで同じ情報を共有し続けることができるなと感じました。発見と持続のバランスにもつながると感じています。 まもなく、辛丑です。辛丑は、一つのことが完全に終わり、新しい道を開くための手探りをする年でもあるそうです。挑戦や開拓の手応えを得るまでには、数年かかりそうな記述を散見しますが、誰かのためになる利他につながることであれば、そこに向かって失敗を繰り返しても、学びと成長をしながら進む歳になりそうですね。 At Tokyo, we are going to the next year - 2021 soon....

「正しい」ということへの欲 - desire for Correct

 *English following Japanese 「1+1 は?」こう聞かれると、なんの疑いも持たず「2」と答えると思います。そして、それが「正しい」と多くの人が考えるでしょう。確かに算数・数学において「2」という回答は正しいです。ただ、算数・数学の枠を外せば、縦の棒が3つ、横の棒が1つ書かれているだけです。もっと言えば、いまコンピューターの画面でこれを見ていれば、直線が4本、うち2本が交差しているだけです。紙の上にペンでかかれたものであれば、それは紙という物質の上にインクが引かれているだけです。 屁理屈のように思われるかもしれませんが、私達は自然と自身の思考の枠組をつかって状況を判断し、そこから回答を出しています。そしてその自身の思考の枠組が常識と信じているため、そこから出された回答に自信がある場合、「正しい」ということを強く要求してしまいます。 もしかしたら、この「正しい」ということに対する人の欲求はあらゆる欲の中で一番強いものかもしれません。「正しい」と言われて嫌な気がする人は、私はみたことありません。人は、自分で「正しい」と思う選択肢を選択して行動しているからです。 でも、上述のように「正しい」というのはあくまでも特定の枠組みの中でのみ成立するため、絶対普遍の「正しい」は存在しません。先程の「1+1 は?」という単純な例をとっても、算数・数学という枠組みでは正しいですが、そこから離れると、色々な解釈の方法があることがわかります。 この「正しい」欲を満たさんと言動を繰り返すと、ある一定の枠組みを外れたところで、大きな軋轢を生みます。それは争いにつながることもしばしばです。一方で、ここまでの世界や経済は、この「正しい」の追求により大きく発展してきたようにも思います。ただ、より早くより広く世界がつながった今、「正しい」の追求は多くの争いを生み出す種となってきています。 もし、何か自分で「正しい」と思う行動や発言をする際、「あれ?」と思う反応があったら一つ落ち着いて「利他」を考えてみると良いと思います。いま自分が「正しい」と思う行動や発言は、誰にどんな利をもたらすことができるだろうか?人だけでなく環境にどんな利をもたらすことができるだろうか。きっと、方法や方針を変えて争いを避けて先に進むきっかけを見つけることができるでしょう。 ”1+1=?”...

独服というスイッチ - Dokufuku (turning on/off mentally)

*English follows Japanese 以前、髪の毛を切りに行っていたサロンのオーナーさんから「恐ろしい顔をしている」と言われたことがあります。それは仕事が忙しい時期、その帰りにカットをしに寄ったときのことでした。最近では家で電話会議に出て、直後にリビングに戻ると子供が顔色をうかがうことがあり、久しぶりにかつてそのサロンのオーナーさんから言われた言葉を思い出しました。 外で仕事をすることがなくなって、気持ちをリセットして切り替えるプロセスもなくなっている。 そこでふと思い出したのが独服です。独服はもともと、独りで一服すること。つまり自分で自分を一碗の茶でもてなすことです。ポットのお湯をティーパックのはいったカップに注げばお茶が飲める時代ですが、お客様にお出しするつもりで一手間かけてみることで、これが一日の中でオンとオフを切り替える良いツールになります。(興味のある方は、「 茶―利休と今をつなぐ (新潮新書) 」を読んでみてください。茶道の観点からわかりやすく説明されています。) 私は、一日に2回、それぞれ違う飲み物でこの独服を行うようになりました。 まずはオフからオンへ。コーヒーを飲みます。 朝食を済ませると、仕事の準備を簡単に済ませたら、お湯を沸かします。 ミルを出してきて、そこに近所の珈琲屋さんが月ごとにだしているブレンドの豆をいれて、ゆっくり挽いていきます。お湯の沸く音、豆が挽かれていく音を注意深く聞き、そしてペーパードリップでコーヒーを淹れています。 ゆっくりとドリップをして、カップ一杯の珈琲を一口、二口。プロではないので日によって味わいが微妙に変わるのもまた一興。 15 分くらいの時間ですが、このあと、カップを仕事のスペースに持っていきスケジュールやメールをチェックしながら、珈琲をすすっていくと、徐々に脳が活性化され、気持ちが仕事に向いていきます。 そして、二回目の独服はオンからオフへ。 日によって異なりますが、タイミングは夕食の前か後。今度は抹茶です。 同じようにお湯を沸かし、布巾を用意します。台所には、時期に合いそうなものや、お気に入りの茶碗を常時おいてあります。茶碗を手元において、茶筅を立てます。 その間に、これまたその時期に気に入ったものやいただき物の干菓子や半生菓子を皿にのせて、テーブルにセット。...